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从日语专业出发,走向广阔世界

要问我当初怎么读了日语系,我觉得大概是命运的捉弄。高考录取的时候,第一志愿和第二志愿都没考上,就去了当时算是给自己“兜底”的日语专业。说实话,高中时自己对于日本除了日料,其余都没有太大兴趣。记得大一从零开始学日语,背五十音图都费了不少劲。刚入门的时候要死记硬背的东西很多,综合日语第一册那句“言葉の勉強は日々の努力の積み重ね”,对当时的自己来说就像绕口令一样,现在还记忆犹新。

大一的时候,老师在课上给我们看NHK的纪录片《纪实72小时》。借着他们的镜头,得以一窥日本的人间百态,纪录片里每个人的喜怒哀乐,有时候自己竟也能感同身受。我开始想,每天这样和枯燥的单词语法打交道,如果以后能去日本亲眼看看日本人的生活是怎样的话,也值得了。

不过初识日本就不大顺利。很奇怪,自己每次去日本都能遇上台风。第一次去日本旅游时遇到了当年的最强台风——第21号台风“飞燕”,关西机场都变成了孤岛,害得自己没能按时回国。做交换生的时候,机场快线和大巴都因为台风停运,一行人刚到日本就在成田机场里被困了八个多小时。最后我成功领到了机场分发的救济粮。现在回想起来,那个压缩饼干的味道还真挺不错。

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在成田机场领到的“救济粮”

2019年,有幸被学校选送去东京都的杏林大学做交换生。我是旅游爱好者,所以这一年与其说是交换留学更像是长期旅游。怎奈日本路费很贵,为了节约资金只好对伙食费开刀。在日本这一年里瘦了40斤,绝对是我在日一年最值得骄傲的事。记得当时主要就吃食堂和食其家(),几乎每天都要说“来一份普通碗牛肉饭,再单点一个沙拉”,这句日语好像刻进了DNA。吃牛肉饭吃到走火入魔,差点毕业论文要去研究牛丼连锁店的海外推广。

日本有句谚语:“男子汉跨出门就有七个敌人”,讲的是人一旦进入社会就会遇到不少坏人。我总想把这句话稍微改写一下,变成“男子汉跨出门就有七个朋友”。这个世界上坏人不少,但是乐观点思考,大胆地“跨过门槛”走出去也能遇到很多朋友。我在日本就有一位忘年交,她叫K桑,已经是个老奶奶了。K桑每年都要找中国人留学生学习中文,也不知道从何时开始总之“代代”相传。上一届的学长正要回国,我就把这个小传统继承了下来。

我和K桑约定每周六早上在市役所门前的ガスト餐厅见面。去的路上还是有些紧张,我对自己的日语也不大自信,不知道和她聊点什么好。幸好见到K桑之后,生熟和疑虑消解得很快。她是个很典型的日本老太太,非常和善。一举一动,说话用词都温文尔雅。75岁的她生活仍然非常充实,总把自己的日程排得很满,平时会去健身房练习乒乓球,还会专门跑去汉语教室学中文。

K桑每周都会在网上找一些中文新闻来读,她把不明白的地方用荧光笔画出来问我。遇到用日语不好解释的地方,K桑见我面露难色,还会给我鼓劲儿:“加油,试着说出来!”不知不觉,和K桑一起学习成了我每周六的固定事项。

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回国前和K桑的合影

2020年4月,新冠肺炎疫情愈发严重,东京发布了紧急事态宣言,只好终止了和K桑的周末学习会。后来就只在夏天回国前见过K桑一面。她还送给我东京奥运会图案的T恤,一边笑一边说:“我不清楚小朱该穿什么尺码,总之买了最大号。”现在每当穿上这件衣服去健身房,都能想到那一年的周六之约。

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东京都与神奈川县分界处

本想好好体验一下日本大学生活,结果因为疫情后半年都是在上网课,有点“半途而废”。不过一点也不觉得遗憾。因为在这特殊的一年里,自己有幸恰好身在现场,驻足观看并可以说是大饱眼福——响应“外出自肃”号召每天在家做饭,厨艺大有精进;疫情期间为了减肥每天跑步,才在仙川边欣赏到了迄今见过的最美夕阳;骑车锻炼,在风和日丽的上午一口气骑到了东京都和神奈川的县界边——一年里从眼前掠过的这些风景,都镌刻在脑海中,一辈子难忘。

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夕阳下的富士山

海德格尔有句名言:“语言是存在的家。”依我看,学习日语为我打开了一扇新世界的门。用海德格尔的说法,可以说是在我的心里搭起了一处“新居”。回想在日语专业的几年,说是命运的捉弄也好,还是想和那个被单词和语法折腾得够呛却坚持没放弃的自己,说一声谢谢。

日语原文

日本語学科からもっと広い世界へ

朱柄丞=文

日本語学科に入ったのは運命のいたずらだといえよう。第一志望と第二志望に全部落ちて、滑り止めの日本語学科に入ることとなった。正直、高校時代の私は日本に対して日本料理ぐらいしか興味を持っておらず、大学1年生の時に日本語をイロハから勉強し、五十音図すら一苦労だった。勉強し始めた頃は丸暗記するしかない資料がかなり多く、1冊目の教科書に書かれていた「日本語の勉強は日々の努力の積み重ね」という言葉は今も鮮明に覚えている。

大学の授業で先生が見せてくれたNHK番組「ドキュメント72時間」には大きな衝撃を受けた。日本という国で起きるさまざまな人間模様を見ることで彼らの喜怒哀楽に共感し、日本語を学ぶ心境が変わった。その時はいつも文法に苦戦していたが、言語を身に付けて日本に住む人々の生活を理解するという目標が心に根を下ろした。

しかし、日本との出会いは順調とはいえず、しかもよく台風と関係した。初の日本旅行は関西国際空港を孤立させた台風21号と遭遇して予定通りに帰国できなかった。留学でも到着時に台風の影響で東京都心部につながる電車が運休となり、空港で8時間以上待たされた。けれども、その時に空港側から非常食としてもらったビスケットはおいしかったものだ。

2019年、交換留学生に選ばれて東京都の杏林大学を留学先に決めた。しかし旅行が大好きな私は、交換留学というより観光旅行が目的だった。交通費のために食費を浮かし、1年間の留学で一番誇らしいことは、20キロ瘦せたことだ。行きつけの店は学食とすき家で、「牛丼の並盛と単品のサラダ」が口癖になるほど何度も注文をした。卒業論文のテーマに「日本の牛丼チェーンの海外進出」を本気で考えたが、結局別のものを研究した。

日本には「男は敷居を跨またげば七人の敵あり」ということわざがある。社会に出て活動するようになると多くの敵と出会うことのたとえだが、私は「敷居を跨げば七人の友あり」に書き換えたい。私からすれば、世の中には悪い人が結構いるものの、プラス思考で考えれば優しい人と出会う可能性も高いのではないかと思う。交換留学を機にできた友人の中でも、Kさんというおばあさんはとても印象的だ。いつ始めたか分からないが、三鷹市に住むKさんは代々の中国人留学生と長年交流を深めてきた。私は帰国直前の先輩から中国語の勉強に熱心なおばあさんのことを教えてもらい、次のパートナーとなった。

土曜日の朝に会うことを約束して、緊張しながら市役所の隣のガストに向かった。当時はまだ日本語で交流する自信がなく、何を話したらいいかぼんやり考えていた。ところが、全ての不安がその場で消えた。Kさんは話し方と振る舞いに上品さが感じられるとても優雅な人だった。75歳になってもスケジュールをぎっしり詰め込み、卓球を練習したり、中国語教室に通ったりして充実した生活を送っていた。

Kさんは毎週、ネットでまとめた中国語の記事を印刷し、分からないところに蛍光ペンを引いて私に聞いた。説明しづらい箇所に遭遇すると、「出来るだけ頑張って」といつも私を励ましてくれた。いつしか土曜日のガストの相互学習は私の留学生活の定番となった。

残念なことに、交換留学の後半に新型コロナウイルス感染症の流行で初の緊急事態宣言が発令され、自粛生活を余儀なくされた。その後、帰国するまでKさんとは一度しか会えなかったが、東京オリンピックのTシャツをもらった。「朱さんのサイズがよく分からなかったから、とりあえずビッグサイズにした」とにこにこ笑っていた。これを着てジムに行くたびに、ガストでの思い出が浮かぶ。

日本の大学生活を十分体験したかったのに、新型コロナのせいで春学期は寮でZOOM授業を受けざるを得なかった。しかし私は中途半端な留学だったと思っていない。日本にいたからこそ楽しめる風景をちゃんと見つめられた1年だったと思う。自粛ムードで自炊するしかなかったので料理の腕が著しく上がった。薄明に鮮やかに染まった仙川と神奈川県県境までのサイクルツーリングが、私の思い出にずっと残る光景だろう。

ハイデガーの名言「言葉は存在の家である」はとても理解できる。日本語を学んだことは私にとって新しい世界への扉を開き、もう一つの居場所をつくったといっても過言ではない。歩んできた道を振り返ってみると、文法と単語との戦いに諦めず勉強し続けた当時の私に「ありがとう」と言いたい。

(作者:朱柄丞,毕业于东华大学日语系,明年春即将入读日本关西大学社会学研究科。)

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